My History
少年時代~学生時代
出身:岩手県花巻市
祖父は、郷里の童話作家、宮沢賢治の生徒だったので、幼い頃より宮沢賢治のエピソードを聴きながら育ちました。そのせいか、多分に夢見がちな少年時代を過ごしたように思います。小学生の頃は、当時流行していた西部劇映画(マカロニウエスタン)の世界に没頭し、エンニオ・モリコーネのサントラレコードをBGMに、よく、鉄砲ごっこをして遊んでいました。自然豊かな緑の風景の背後に、いつもモリコーネのメロディが響いていたように思います。祖父は、無教会派のキリスト教徒だったので、その教えを受けて、将来は音楽家になるか、伝道者になるかと夢見ていました。
中学、高等学校と、当時ブームになっていた、ニューミュージックの影響によって、友人達とバンドを組んで、地元花巻市や、盛岡市で定期的にコンサートを開いたりしました。地元のラジオ局への出演等により知名度も上がり、渋谷の西武デパート屋上で開催されたバンドコンテストで準優勝し、最終的にはビクター音楽産業株式会社の協力でシングル版を出版しました。(当然、この時代はアナログ・レコードです)バンドのメンバーはプロのミュージシャンを目指すより、家業を継ぐ者、歯科医を希望する者と、着実な将来を選び、私もこれからの時代に必要な語学を学ぼうと、大阪にある関西外国語大学英米語学科に入学しました。
1983年 就職 〜 MIDIとの出会い
大学入学後、2年生の春休みに本物に触れたいという思いから、ギリシャ、イスラエルを廻る聖地巡礼の旅に出ました。日本を離れてはじめて、日本の素晴らしさを知り、自分も社会の一員として何が出来るか、自分自身の目標を考える良い機会でした。大学卒業後、音楽関係で、特にシンセサイザーに興味があったので、株式会社コルク゛関西営業所に就職。本当に面倒見のいい先輩多数の方々に様々な事を教えていただきました。当時、シンセサイザーはアナログからデジタルに変わろうとする時期で、MIDIという概念や、コンピューターミュージックという事に関して、働きながら覚える事が出来たという事はなんとラッキーだったのでしょう!
また、後にアミューズメント業界へ私を誘ってくださった先輩もここで知り合いました。そう考えれば株式会社コルク゛さんって、とても懐が深い会社だったと思います。結局、社員は3年間で辞めてしまったのですが、その後も、データ制作等のお手伝いをさせていただいたり、アミューズメントの仕事をするようになってからも、竹原市に竹のパイプオルガンを制作するにあたり色々とお世話になりました。
1985年10月 独立 〜 データ制作
独立して、関西圏のテレビ用ジングルや企業VPのBGM音楽制作、ミュージシャンとして大阪市内のライブハウスに出演したりという活動をはじめました。また、制作環境として、当時発売されたばかりのアップル社のマッキントッシュ・プラスというコンピューターと、FOSTEXの8トラックのオープンリール・テープレコーダーを購入し、自宅録音に目覚めました。この頃学んだ事が、後々にカラオケ制作業務や、着メロ・着うた制作の基礎となったと思います。当時一緒にバンド活動していた仲間として、後にGRAYの「永遠の4/1」の著者となる磯崎 雅彦さんや、放送作家の倉本 美津留さん等がいます。やがて、結婚を期に、1990年3月、長年活動してきた大阪を離れ、東京に活動の場を移しました。
1991年 ロンドン留学
1991年4月、イギリス、ロンドン郊外のゴルダーズ・グリーンにあるHampstead Garden Suburb Insttudeに入学、7ヶ月間ロンドンに滞在し、演劇、音楽、映画等、欧州文化を直接肌で感じる経験をしました。その年はロンドンでジャパン・フェスティバルが開催されていて、坂本龍一さんのコンサートを見に行ったりもしました。
夏にはフランスに渡り、パリを始め、ルーアン、エトルタ、トゥール等の地方都市を1週間かけて電車で廻ったりもしました。感動した事は、スティール・ドラムを弾く数十人の楽団がパリのリュクサンブール公園で野外ライブを行なっていて、そのグルーブ感は半端なくカッコよかった!通りがかった人々が無料で楽しんでいて、そういった芸術に関する考え方にカルチャーショックを受けました。
からくり時計 〜 ディノ・アライブ 1993年
東京に移って暫くして、株式会社コルグで働いていた時の先輩の誘いで、イベント系の制作会社に就職しました。当時はバブル絶頂の頃、地方都市の郊外に、巨大商業施設が次々と建設され、その商業施設に、憩いのスペース的な空間演出を目的とするからくり時計を設置するという仕事をしました。
1993年夏、かねてからの恐竜ブームを反映したディノ・アライブというイベントが、大阪梅田で開催されました。会場全体を6つのシーンに分け、第1〜第5シーンまでの動作演出プログラミングを担当致しました。第6シーンは、ハリウッドのSFX映像を手掛けるクリス・ウェラスさんによる雄大な演出で、コンピューターによるシステムの動作コントロールを担当していたのが、その後に弊社がハードウェアを輸入する事になる、メディアメーション社だったのです。まさに運命的な出会いでした。アプリケーションも、どちらもマークオブユニコーン社のパフォーマー(デジタルパフォーマーの前身)を使用しておりました。
MIDI アミューズメント・システム
その後、MIDI信号を使ったコントロールシステムは、リアルタイムでの修正が安易で、また、制御機器も、MIDIシーケンサー等、それ程高価な物ではなく、比較的コストパフォーマンスに優れていたので、様々な現場で用いられました。岡山県倉敷市に開園したチボリ公園のアンデルセンシアター、広島県竹原市・竹の館に設置された環境楽器「竹のパイプオルガン」、大阪なんば吉本会館地下のイベントレストラン「青龍門」、愛知万博NEDO館「ミライくんロボット」を始め、数多くの博物館や、展示会で使用されてきております。それらの制作の現場に関わり、音と光と動きが同期したシステム構築を深く学びました。
着メロ・着うた制作
MIDI信号の制御によるアミューズメント施設のシステム制作と同時に、音楽制作現場においての大きなストリームである、着メロ・着うた制作の現場にも関わって来ました。
2002年3月、株式会社ジーアングルの創設時のスタッフに加わり、同社にて、着メロ・着うたの制作、ボーカル曲の録音、ミキシング、CD制作等の業務に携わりました。その後、株式会社乃村工藝社さまの依頼を受け、2005年の東京モーターショーHONDAブースのターンテーブル制御プログラムや、汐留の日本テレビ本社「宮崎駿の日テレ大時計」システムの音響・動作プログラムを担当しました。
会社設立 〜 現在
2005年11月15日、有限会社ドリームシーカー設立。
2014年4月23日株式会社ドリームシーカーへ登記変更。
現在、アミューズメントの本場、米国カリフォルニアのメディアメーション社の正規販売店として、その優れたハードウェアを使用してシステム構築を行なっています。
音と光のファンタジーをデザインする現場において、見る者につねに感動と驚きを与えるためには、どうしたらよいのか?
音楽が好き、映画が好き、電気が好き、機械が好き、舞台が好き、照明が好き、エンニオ・モリコーネが好き、、、、物事に精通する入り口は、そんな好きから始まっています。その好きという気持ちを忘れずに、どのような困難な場面に遭遇してもあきらめず、夢のような世界を舞台・映像・展示で実現するような仕事ができればと願っています。もちろん、大きなプロジェクトや、たとえひと部屋の展示の仕事だったとしても、弊社一社だけで成り立っているわけではありません。
これまでも、現在も、これからも、貴方とともに助け合いながら、よりよい仕事をしていきたいと考えています。奇しくも、MIDI信号のプログラムのために若いときに購入したアップル社のコンピューター、そのアップル社の設立者、スティーブ・ジョブスは、生前、ウォルト・ディズニー社の筆頭株主に名を連ねています。スティーブ・ジョブスのピクサー社がなければ、「アナと雪の女王」のヒットもなかったかもしれません。今後、映像、音楽、ロボット動作というアミューズメント事業において、日本のものづくり技術とアイディアを生かして、ウォルト・ディズニー社を目標とする、世界に通用する会社へ成長するためにいっそう精進していきたいと考えています。